08年→09年越冬闘争へ。そしてなぜ「闘争」なのか−200人超の路上死

08年→09年越冬闘争へ連帯する実行委員会です。

さて、越冬闘争とは何でしょうか?
闘争という言葉に引っかかる方もいらっしゃるでしょう。
しかしこれは歴史的に打ち立てられた言葉なのです。

ではいかなる歴史が「越冬闘争」という言葉を作ったのか、まずはそこを解説したいと思います。

大阪環状線新今宮駅前南側に広がる釜ヶ埼という地域があります。
ここは日雇い労働者の町です。早朝に手配師という人間がやってきてどこそこで何という作業で賃金はいくら飯つき何人まで、といった条件を提示して集まった日雇い労働者を連れて行くわけです。
こういう地域を「寄せ場」といい、国内ではほかに東京の山谷や横浜の寿が有名です。

釜ヶ崎自体は戦前からありますが、戦後は農村や炭鉱から排出され、また差別により安定した雇用から排除された人々を吸い寄せ膨張し、高度経済成長期の日本を最底辺から支えてきました。

言い換えると、最も容易く雇用と解雇ができる存在として、雇用の調整弁として使われ搾取されてきました。

そのような中で、会社側から賃金未払いや暴行・殺人にあったり、知らされずに原発作業に連れて行かれるなどもありましたが、それは別項で触れようと思います。


さて本題の「越冬闘争」という言葉に戻ります。
日雇い労働者はもともとそんなに毎日仕事に行けません。釜ヶ崎に居る人間より仕事の口のほうが少ないからです。特にバブル崩壊後落ち込みが激しく、寄せ場に依らない短期雇用の方法が開発されたこともあり、高齢化も進んでいます。

仕事も少なく、さらに年を取って仕事に就けなくなった日雇いのおっちゃんらはどうするのか?
不安定雇用のためもともと蓄えなどそこまで作れませんから路上へ行くことになります。(生活保護は日雇い労働者へは強く制限されてきました。)

大阪市だけで毎年200人以上が路上で死亡しています。

中でも、仕事が止まり、公共機関も休む年末年始は大変です。
地方の飯場に長期の仕事に行っていた労働者も戻ってきて街の人口も一気に増えます。

まさに冬を越すだけでも、生きて春を迎えること自体が、闘いなのです。



08年→09年越冬闘争へ連帯する実行委員会はこの時期に誰も凍死したり餓死したりしないように夜回りや炊き出しや行政に対する行動に参加します。
皆様の参加をお待ちしてます。1日だけでも結構です。
各種企画を用意してますので、順次アップしたいと思います。
お問い合わせはettoujitu08to09@yahoo.co.jpです。

文責:鍋島